温故知新 シリーズ「あの頃こんなことがあった」(5) 熊本市御領地区の携帯基地局問題(中)

大久保貞利(電磁波研事務局長)

九州セルラー(現KDDI)の暴力ガードマン

 前回、九州セルラー(現KDDI)に対し御領地区を中心に約250名という大きな規模での熊本市内でのパレードを紹介しました。今ならこれだけの取り組みを前にしたら携帯会社は度肝を抜かれて撤退するでしょう。しかし当時の九州セルラーは暴力的で住民の声を無視し続けました。

事態は一挙に動いた
 1997年8月26日、九州セルラーから建設工事を請け負った地元業者「増永組」が基地局建設工事を行うと住民に通告してきました。翌日の27日、御領の住民たちは熊本市に工事をさせないよう携帯会社に行政指導を要請するため出向きました。同時に地元で約50人の緊急集会を開き、一方で九州セルラーにも抗議行動を行いました。
 翌々日の28日には、「建設代替地の検討を目的とする調停」について弁護士を訪れ、次の日の29日には正式に弁護士に調停の件で依頼しました。調停には申立人が必要だが、申立人は多ければ多いほどいいとアドバイスを受けたので、わすか3日間で480人の申立人を集めました。
 8月31日の午前中、御領で住民総決起集会が開かれ約450人が結集しました。当時の熱気が伝わってくる住民たちの獅子奮迅ぶりです。
沼山津でも同じ日に400人集会
 市内の沼山津(ぬやまづ)地区でも、工事業者は御領と同じ「増永組」です。ここでも通告こそありませんが建設工事強行の動きがあったので、8月31日午後、約400人で集会を開きました。
 9月1日、御領住民は熊本地裁に「工事強行をせず、代替地の移転を検討する」旨の調停申立書を提出しました。一方沼山津は調停でなく、いきなり「工事差止仮処分申請」を行いました。沼山津は10月28日、仮処分の第1回公判に入りました。
 御領の調停第1回公判は11月20日に行われました。御領の第1回公判に集まった89名はそのまま熊本市長室に要請行動に出向きました。しかし、九州セルラーは調停にまったく誠意を見せず、調停は不調に終わりました。仮処分裁判や本裁判と異なり、調停は両者の意思がそろわないと成立しません。

2回目のパレードにも315人が参加
 誠意のない九州セルラーに圧力をかけるため、翌年の1998年5月24日、九州セルラーの横暴ぶりをアピールする目的で,第2回目の街頭パレードが実施されました。このパレードに315名が参加しました。パレードには、御領2地区(5丁目と2丁目)、沼山津、新大江、菊陽町ひばりが丘、に加えて新しく闘いが始まった山鹿市の住民も参加しました。
 山鹿市は熊本市から北へ20kmの所にあり、九州セルラーが高さ40mの基地局を計画しています。これに対し、町内会総会で240戸が出席し満場一致で反対決議を上げました。この時期、いかに九州セルラーが横暴に九州を荒らしまわっていたかわかるでしょう。

最初の激突、4か月間建設阻止
 315名が参加した第2回目のパレードの余韻も冷めぬ1998年6月1日、御領5丁目の基地局建設予定地に、九州セルラーは巨大な杭打機を搬入し、工事を強行開始しました。住民側はすぐさま114人で工事実力阻止行動を展開しました。この激しい実力行動に、さしもの九州セルラーも工事を止めました。この日以降九州セルラーと住民側の厳しい対峙が続きます。2日後の6月3日、阻止行動を続ける一方で「工事差止仮処分申請」を住民側は熊本地裁に提出しました。さらにその2日後の6月5日、熊本市長室前に約90人の住民が6時間にわたり直訴の座り込みを敢行しました。
 建設予定地では6月1日から10月5日まで実に丸4か月間、住民たちは朝の8時前から夕方の5時半すぎまで、ローテーションを組み、座り込み闘争を貫徹しました。
 10月5日、熊本地裁が出した「工事自粛要請」を九州セルラーが受け入れると表明したため御領第一次阻止闘争は終結しました。

御領に続き沼山津でも工事阻止
 御領とまったく同じ日の6月1日、沼山津でも九州セルラーは建設予定地で「仮囲い工事」に着工しようとしましたが、住民たちによって阻止されました。6月1日に御領と沼山津で同時に工事を開始しようとしたのは、そうすれば住民たちの力が分散されると踏んだのでしょうが、住民側のパワーが九州セルラーの力を上回ったのです。
 2日後の6月3日、今度は「家屋調査」と称して九州セルラーは現地に来ましたが、これも住民側に追い返されました。6月7日には沼山津住民集会が開かれ300名が集まり、単独でパレードも敢行しました。これを契機に、沼山津でもこの日より朝9時から夕方5時まで現地監視体制が始まりました。
 沼山津では調停なしで始めから仮処分で争っていましたが、地裁で却下され、福岡高裁まで行ってました。7月27日、福岡高裁が「工事自粛要請」を出し、九州セルラーが受け入れたので、住民側は監視体制を解きました。

裁判では「電磁波+地盤軟弱」で争う
 日本の裁判所は電磁波という新しい課題の経験はなく、前例踏襲の古い体質が濃厚です。そこで御領と沼山津は裁判において、電磁波問題だけでは争いにくいと判断し、「地盤がゆるい土地に巨大鉄塔を建てるのは倒壊の危険性がある」ことを争点としてきました。沼山津は前回も紹介したように、その名の通り湧水が豊富で軟弱な土地です。御領も地盤はゆるい土地です。実際、御領ではビルやアパートでも3階建てはありません。
 裁判では、住民側は松本幡郎元熊本大教授を証人に立て「地質学の立場から鉄塔建設不適地である」ことを証言してもらいました。松本元教授は阿蘇の地質研究で世界的に知られた学者で、昭和天皇に進講したこともある人です。「この地域(御領)は託麻砂礫層といって乱流地積層からなる軟弱で複雑な地盤となっているので、巨大鉄塔は倒壊のおそれがある」と鑑定しました。

女性にすら暴力振るう蛮行

2回目の激突
 10月16日に開かれた熊本地裁の「第3回審尋」〈しんじん=民事訴訟で当事者双方が意見を述べ合うこと〉でこの松本証言が出たことで、住民側に「なんとか裁判で争えそうだ」という気分が生まれました。
 しかし年が明けた1999年1月10日、熊本地裁は「工事差止仮処分申請」を却下しました。住民側は即刻福岡高裁に抗告しました。ところが、九州セルラーはこの間隙を塗って2月1日から一挙に大勢のガードマンを引き連れて御領建設予定地で工事再開を暴力的に行いました。
 最大の激突は2月3日に起きました。この日九州セルラーはガードマンを40人増やし、増永組の20人と合わせて合計60人の大部隊で住民に襲いかかってきました。現場は修羅場と化しました。この激突で、78歳の人が左胸肋骨ひび、70歳の人が左肩鍵板断裂、50歳の人が左頸椎部亀裂骨折、さらに56歳の人が4人の下敷きになり意識不明のまま救急車で運ばれました。

九州セルラーの暴力的行為は許されない
 翌2月4日、九州セルラーはまたも大挙して押しかけ、住民を暴力的に排除し工事を強行しました。九州セルラーのむき出しの暴力で排除された住民は、県庁への陳情、県議会への傍聴を行うなど、決してあきらめずできることを行いました。
 3月9日には、自分たちのお金で自主的に地質ボーリング調査をしました。九州セルラーのボーリング調査は地下30mしか調べないので、地盤の軟弱さを証明するため地下50mまで自主的にボーリング調査を行ったのです。ふつうなら100万円近くかかる調査を半額で引き受けてもらいました。

今度は沼山津を襲った
 御領を“つぶした”勢いで、九州セルラーは今度は沼山津に襲いかかってきました。御領の激しい攻防から2か月以上経った4月21日に、九州セルラーは「ボーリングのため」と称して、車両を建設予定地に搬入してきました。住民は抗議しましたが、それを無視した行動です。
 6月8日、御領と同じようにガードマンを大挙引き連れて、住民の必死の阻止行動をはねつけ、建設機械が搬入されました。この時もけが人が出ました。6月16日には、残りの資材も搬入されました。

こうして1999年中に御領と沼山津で通信鉄塔は建った
 住民の必死の抵抗を暴力的に排除し、こうして1999年中に御領と沼山津両地域に九州セルラーは高さ40mの巨大な通信鉄塔(基地局)を建てました。
 九州セルラーは基地局が建つ間、「工事妨害」を理由に複数の住民に対し高額な損害賠償訴訟を起こしました。この損害賠償訴訟はさすがに工事が進んだ段階で九州セルラーが取り下げました。明らかに工事強行のための脅しが目的でした。
 基地局は建ちましたが、住民たちの怒りは持続しあきらめてはいません。

「鉄塔撤去」を求める本訴訟に入る電波はしばらく発信できず
 御領住民は1999年12月20日、熊本地裁に「鉄塔撤去」を求める本訴訟を提起しました。沼山津住民も同年99年6月に本訴訟に踏み切りました。本訴訟における鉄塔撤去理由は、①電磁波による健康被害、②鉄塔倒壊に危険、③鉄塔建設過程での九州セルラーの権利濫用、です。
 たしかに鉄塔(基地局)は建ちました。しかししばらくの間は、九州セルラーは御領でも沼山津でも電磁波を発信できずにいました。それどころか、沼山津の鉄塔は地盤のゆるみからすでに東方向に5.7cm傾きました。
 九州セルラーは暴力で一時的に勝利したかもしれませんが、そのつけは大きいものがあります。御領2丁目のNTTドコモの鉄塔もしばらくの間は建設が着工できませんでした。
 この力が九州ネットワークの旗上げにつながるのです。それは次回に。

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