閑話休題 別子銅山を訪ねて

 今年の秋、3泊4日かけて愛媛県新居浜市(にいはまし)にある別子銅山を見学した。別子銅山は、日本三大銅山(別子、足尾、日立)の一つで、住友財閥ゆかりの銅山である。操業開始は元禄4年(1691年)で、閉山は昭和48年(1973年)、つまり約280年操業が続いた世界でも屈指の銅山だ。愛媛県の山麓にあり、すぐ裏は高知県である。案内人が一流だったため中身の濃い見学だった。

住友財閥をつくった山
 東京の皇居前広場に建つ楠木正成像は別子銅山の銅でつくられた。別子銅山は世界最大級の産銅量を誇る鉱山で、日本の3大財閥で一番歴史のある住友財閥の存在は別子銅山抜きには語れない。住友の財閥としての歴史はイギリス・オランダ系のロスチャイルド財閥より古い。三井・三菱、特に三菱は官業払下げを奇貨として成長したが、住友は3大財閥の中でほとんど官業払下げを受けなかった財閥である。別子銅山を経営する上で、必要に応じて住友重機(鉱山掘削機械)、住友金属鉱山(掘削技術、銅以外の鉱山開発)、住友化学(精錬技術)、住友銀行(資金融資)、住友商事(貿易、販売、商工)、住友林業(精錬煙害ではげ山になった山を植林してできた木の利用)等等の関連企業が生まれた。まさに別子銅山一筋で築き上げた財閥である。

坑道入口の一つ。坑道は高い所で海抜1200m、低い所で海面下1000m。鉱山内は巨大なありの巣のようで、坑道の全長は700kmに及ぶ

坑道入口の一つ。坑道は高い所で海抜1200m、低い所で海面下1000m。鉱山内は巨大なありの巣のようで、坑道の全長は700kmに及ぶ

広瀬宰平という人物
 住友財閥は16世紀末に発祥し、別子銅山開発とともに歴史を歩み、江戸時代末期の慶応初期には「日本の四大資産家の一つ」にまで成長した。しかし明治維新で危機を迎えた。維新政府は旧幕府の特権を原則廃止としたので、別子銅山の鉱物採掘権も土佐藩に差し押さえられた。新興勢力の三菱が新政府の威光の下で官業払下げを追い風に急成長したのとは好対照である。銅山の採掘権を奪われれば、住友の屋台は崩れかねない。この難局を乗り切ったのが住友家初代総理(事)人広瀬宰平(ひろせ・さいへい)である。総理人とは大番頭のことである。
 宰平は「諸事更新」の方針を出し、伝統的家業経営から近代的企業経営に舵をきった。住友の経営を銅山経営だけでなく、関連事業を含めた経営の多角化に踏み込ませた。土佐藩に対しては住友が引き続き別子銅山を経営したほうが新政権の殖産興業政策に沿うと説き、その説得に成功した。その後も銅山経営近代化のため、フランス技師ラロックを破格の高給で雇い入れたり、日本の鉱山でいち早く鉄道を導入した。

逆命利君の家法も宰平の案
 広瀬宰平は新たに「住友家法」を制定した。この家法がすごい。「浮利は追わず」(実業に徹した経営)はまずまずとして、驚くのは「逆命利君」(ぎゃくめいりくん)だ。逆命利君とは、主君を利するためには時として主君の命令に背いてもかまわない、という中国の故事からきた言葉だ。住友当主が愚鈍ならば、当主を廃し替えてもいいとまで宰平は言い切った。社長や上司が間違っていれば命令に反してもいいというのだ。今の社畜化したサラリーマンには耳が痛い家法だ。
 じつは私の友人Pが広瀬宰平の5代あとの血筋で、彼の誘いで別子銅山に来た。だから案内人も一流で、普通では案内されない場所まで案内してもらった。

2000人収容の大劇場
 鉱山労働と言えば苛酷な印象がある。実際、鉱山鉄道が開通するまでは、山に登る時も下る時も女は30キロ以上、男は45キロ以上の荷を背負わされた。登る時は食糧や道具などを、下る時は銅鉱石を背負う。銅山展示館「マイントピア」に30キロの荷の見本があり担いでみた。半端でない重さだ。男は45キロ以上で、90キロ背負った人もいたという。銅山に限らず掘削の宿命として「(地下)水が出る」。その水のかき出しが大変で、機械ポンプが導入されるまでは人力で行った。「2時間交代」で24時間続く作業はまさに地獄の作業である。酸性水に腰までつかり、作業員は寿命を縮めた。
 別子銅山は最盛期には5千人の労働者が働き、家族を含めると1万人が山で生活していた。そのため300人の児童が通う小学校や、2000人を収容する大劇場が山の中にあった。今も土台だけは残っている。歌舞伎が四国で巡業興業される時は、真っ先に別子銅山で上演されたという。大浴場もあり、浴場を出た先には遊郭もあった。

煙害と植林
 私は栃木県の足尾銅山にも何回か足を運んだが、足尾の松木谷は今でも草木の生えぬ醜い地肌をさらしたはげ山である。銅を精錬する際に出る二酸化硫黄ガスや亜硫酸ガスが山を枯らすためだ。煙害は別子銅山でも起こり周辺の山をはげ山にした。そこで宰平は煙害を防ごうと陸地から24キロ沖合の瀬戸内海に浮かぶ四阪島(しさかじま)に精錬所を作り、山には植林をした。しかし24キロ離れていても風向きで鉱毒ガスが陸まで流れ煙害はなくならなかった。しかし明治の時代に煙害を防ごうとした姿勢は評価できる。現在別子の山は緑に覆われ、かつての悲惨さはわからない。そこは足尾とは違う。
 別子銅山をほめすぎたかもしれない。別子銅山で働く労働者の平均寿命は30そこそこである。鉱山労働者の膏血を絞った上に住友財閥が形成されたことは事実である。いろいろ考えさせられた旅であった。【大久保貞利】

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